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契約がなくても台湾を選んだ――パク・ソンジュ(JJUBI)、自主応援から自らつかんだチャンスまでの軌跡

台湾プロ野球で韓国人チアリーダーの人気が高まるなか、パク・ソンジュ(JJUBI)は球団との契約がないまま台湾に残り、新たな仕事を探し続けた。自ら中国語を学び、球場で応援に参加する一方、仕事の紹介を口実にした不誠実な誘いに傷つくこともあった。それでも彼女は中信兄弟Passion Sistersのマネージャーに直接連絡し、2025年7月に正式加入。2026年6月には急性虫垂炎によって活動休止を余儀なくされた。これは単なる海外進出の成功物語ではない。異国で仕事と生活を一から築こうとした、一人のプロフェッショナルの記録である。

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台北、2026年10月16日

2025年2月、台湾・台北ドームではワールド・ベースボール・クラシック(WBC)予選が開催されていた。

台湾代表を応援するファンの歓声が球場を包むなか、観客席には一人の韓国人チアリーダーの姿があった。

彼女は当時、台湾プロ野球のどの球団にも正式には所属していなかった。

球団との活動契約もなかった。

その人物こそ、パク・ソンジュ(박선주)。JJUBIという活動名で知られる女性だった。

韓国プロ野球でチアリーダーとして活動してきた彼女は、プロスポーツの応援文化をよく知っていた。

しかし、その時点で台湾には彼女のために用意された正式なステージはなかった。

それでも彼女は球場に足を運び、台湾代表の応援に加わった。

ファンが撮影した映像に残されたこの場面は、後に彼女の台湾での歩みを振り返るうえで、特別な意味を持つことになる。

当時の彼女には、台湾で仕事を得られる保証がなかった。

確定した契約も、具体的な活動予定もない。

次に正式なチアリーダーとしてステージに立てる日がいつになるのかさえ分からなかった。

それでも彼女は、台湾に残る道を選んでいた。

パク・ソンジュの物語は、まさにここから始まる。

台湾プロ野球で韓国人チアリーダーの人気が高まり、多くの人材が球団からの招待やマネジメント契約を通じて台湾に進出するようになった。

しかし、パク・ソンジュが歩んだ道は少し違っていた。

彼女はまず台湾に来た。

自ら生活の準備を整え、中国語学校に通い、仕事を探した。

待ち続けることに疲れ、信用できない仕事の紹介に傷ついたこともあった。

友人たちが次々とチャンスをつかむなか、なぜ自分には声がかからないのかと悩んだこともあった。

そして最終的に、自ら中信兄弟Passion Sistersのマネージャーに連絡し、面談の機会を求めた。

2025年7月、彼女はついに中信兄弟への正式加入を果たした。

だが、試練はそこで終わらなかった。

2026年6月には突然の急性虫垂炎によって活動を休止し、長く準備していたソロパフォーマンスも中止せざるを得なくなった。

契約のない日々から正式加入へ。

そして健康上の問題を経験し、その先の将来を考えるまで。

彼女の台湾での歩みは、華やかな応援写真一枚では語り尽くせない。

これは、異国で自分の居場所と職業人生を築こうとした、一人の女性の物語である。

1. 最初からチアリーダーを目指していたわけではなかった

パク・ソンジュは1997年1月29日、韓国・釜山に生まれた。

釜山大学で生物環境エネルギー関連の分野を学んだ経歴を持つ。

一般的に想像されるプロのチアリーダーの進路とは、少し異なる背景だ。

2026年9月、台湾メディアのインタビューで、彼女は社会人としての最初の経験を振り返っている。

大学卒業後、ソウルに移り、建設会社で約2〜3か月働いたことがあった。

しかし、当時の職場文化になじめず、決まった時間にオフィスで働く生活も自分には合わないと感じたという。

結局、彼女はその仕事を辞めた。

それは、次の職業が決まったうえでの転職ではなかった。

それまでの進路を離れるということは、自分が本当に何をしたいのかを改めて探すことでもあった。

そこで思い出したのが、学生時代から好きだったダンスだった。

中学・高校時代にはダンス部で活動し、部長を務めた経験もあった。

先輩の紹介を通じてプロスポーツの応援活動に触れ、やがてチアリーダーの世界へと入っていった。

その後、韓国プロ野球のロッテ・ジャイアンツやNCダイノスをはじめ、複数のプロスポーツの現場で応援活動を経験した。

異なる競技で活動するということは、単にユニフォームを着替えることではない。

野球では九回にわたる試合の流れに合わせ、打者の登場や攻守交代、試合展開に応じて応援を変える必要がある。

一方、バスケットボールではタイムアウトやクォーター間の短い時間にパフォーマンスを披露し、観客の熱気を高めなければならない。

球団ごとに応援歌も、ファン文化も、現場の運営方法も異なる。

こうした経験を通じ、パク・ソンジュは台湾に来る前から、長年の実績を持つプロの応援パフォーマーになっていた。

しかし、経験があるからといって、海外での仕事が保証されるわけではない。

韓国で積み重ねたキャリアが、そのまま台湾球団との契約につながることはなかった。

2. 2023年の短期訪問から、台湾に残るという決断へ

パク・ソンジュと台湾野球のつながりは、Passion Sistersへの正式加入よりも前に始まっていた。

2026年9月のインタビューによれば、2023年8月、NCダイノスで活動していた彼女は、イ・アヨンとともに中信兄弟のテーマイベントに招待され、台湾を訪れている。

当時は短期間の海外イベントだった。

台湾に長く住むかどうかを決める必要もなければ、契約のない状態で生活することの難しさに直面することもなかった。

しかし、この経験は台湾プロ野球の現場文化を知るきっかけとなった。

その後、台湾では韓国人チアリーダーの市場が急速に拡大していく。

韓国の応援文化と台湾プロ野球の組み合わせが話題となり、韓国人チアリーダーは球団のマーケティングにおいて重要な存在となった。

正式な招待を受け、台湾で新たなキャリアを始める人も増えていった。

パク・ソンジュも台湾で働きたいと考えた。

だが、彼女にはすぐに球団からのオファーが届かなかった。

そのとき、彼女は選択を迫られた。

韓国でチャンスを待ち続けるのか。

それとも、先に台湾へ行き、可能性を探すのか。

彼女が選んだのは後者だった。

2025年、正式な球団契約がないまま、台湾に残ることを決意した。

一見すると、夢を追うロマンチックな決断に見えるかもしれない。

しかし現実には、大きな不確実性を引き受ける選択だった。

住まい、生活費、交通手段、日々の暮らしを自分で整えなければならない。

何より、いつ仕事が見つかるのか分からなかった。

現場でのパフォーマンスを職業とする人にとって、定期的な出演予定がないことは、収入とキャリアの双方が不安定になることを意味する。

彼女は仕事が決まってから台湾に来たのではない。

先に台湾を選び、そこで仕事を続けられる舞台を探そうとしたのである。

3. 契約のない日々、彼女はまず中国語を学び始めた

台湾で仕事を待つ間、パク・ソンジュは中国語学校に通い始めた。

表面的には、台湾での生活に適応するための行動に見える。

しかし、当時の状況を考えると、それ以上の意味があった。

彼女は球団に採用され、会社が用意した語学研修を受けていたわけではない。

台湾で働き続けられるかどうかも分からない段階で、自ら時間と費用をかけて中国語を学んでいた。

中国語は、球場でファンにあいさつするためだけの道具ではなかった。

異国で自立して生活するための力でもあった。

住居探し、交通機関の利用、買い物、病院での受診、仕事関係者との連絡。

さらには、持ちかけられた話が信頼できるものかどうかを判断するうえでも、言語能力は重要になる。

慣れない国で言葉が通じないと、日常の何気ない場面でも自分で判断することが難しくなる。

だからこそ、彼女の中国語学習を単に「台湾のファンのために一生懸命勉強した」という美談だけで片づけるべきではない。

それは、自分の生活を自分で支えるための準備だった。

2026年9月のインタビューで、彼女は中国語で行われる会話の大部分を理解できるようになったと話した。

一人で地下鉄や台湾高速鉄道を利用でき、台湾人のチームメートとも中国語でコミュニケーションを取れるという。

彼女は台湾での生活への適応度を、自分で80点と評価した。

残りの20点については、とりわけ中国語能力にまだ成長の余地があると考えていた。

この答えは興味深い。

彼女は台湾に完全に適応したとは言わなかった。

むしろ、まだ学ぶべきことがあると認めていた。

最初は基本的な意思疎通も容易ではなかったが、時間をかけて一人で生活できる力を身につけていった。

そして、その努力は中信兄弟への正式加入よりも前から始まっていた。

4. 「野生応援」――正式な舞台がなくても球場へ向かった

2025年2月のWBC予選は、パク・ソンジュの台湾での歩みを語るうえで、忘れられない場面の一つだ。

当時、彼女は台湾プロ野球球団の正式なチアリーダーではなかった。

それでも、ファンが撮影した映像には、台北ドームで台湾代表の応援に参加する彼女の姿が残されている。

こうした活動を、一部のファンは「野生応援」と表現した。

球団に正式所属していないにもかかわらず、野球の応援現場に姿を見せたという意味だ。

ただし、公開映像だけを根拠に、彼女が毎回自費で球場に足を運んでいたとか、いかなるイベント関係者からも招待されていなかったと断定することはできない。

それでも、この場面が持つ象徴的な意味は明確だ。

彼女はまだ台湾プロ野球で正式な仕事を得ていなかったが、すでにその産業とファン文化に積極的に近づいていた。

もちろん、こうした行動が直接契約につながるとは限らない。

球団はチアリーダーを採用する際、チーム編成やイベント運営、予算、マネジメント体制など、さまざまな要素を考慮する。

ファンに知られたからといって、必ず採用されるわけでもない。

それでもパク・ソンジュにとって、球場を訪れることは、好きな応援活動とのつながりを保つ方法だったのだろう。

ほかの人たちが球団のユニフォームを着て決まった舞台に立つ一方で、彼女はまだ自分の居場所を探していた。

次の正式な出演がいつになるのかも分からなかった。

それでも、彼女は野球場から離れなかった。

だからこそ、後にPassion Sistersへ正式加入したというニュースには、より深い意味が生まれる。

彼女が台湾野球を知ったのは、契約書に署名した日からではなかった。

それ以前から、その文化の一部になろうとしていたのである。

5. 友人たちは次々とチャンスをつかむのに、なぜ自分には声がかからないのか

台湾で仕事を待ち続けるなか、パク・ソンジュは大きな失望を味わった。

友人のキム・ナヨンは、すでに台湾で活動する機会を得ていた。

周囲の人々が次々と新たな舞台を見つける一方、彼女には正式な契約の話が届かなかった。

2025年7月の台湾メディアの報道によると、彼女は後にPassion Sistersのマネージャーである「乖姐(グアイジエ)」に当時の気持ちを打ち明けた。

友人の成功はうれしい。

それでも、なぜ自分にはいつまでもチャンスが来ないのか、理解できずにいたという。

それは単なる失業状態よりも複雑な感情だったはずだ。

彼女にはすでに韓国プロスポーツの現場で積んだ経験があった。

海外イベントへの出演経験もあった。

努力していなかったわけでもない。

台湾に来て生活を整え、中国語を学び、仕事を探し続けていた。

だが、努力が必ずしもすぐに結果につながるわけではない。

特にパフォーマンス業界では、個人の能力以外にも採用を左右する要素が多い。

球団の人員構成、マネジメント契約、商業的な戦略、イベント日程、チームのイメージなどが判断に影響する。

能力のある人でも、その時点の需要に合わなければ機会を得られないことがある。

パク・ソンジュが直面したのは、まさにそうした現実だった。

ダンスの練習はできる。

中国語も学べる。

台湾のファンに近づく努力もできる。

しかし、球団がいつ自分に機会を与えるかは、自分では決められなかった。

だからこそ、彼女が自ら手紙を送り、面談を求めた行動には大きな意味がある。

それは、誰かが自分を見つけてくれるのを待つだけではなくなったということだった。

6. 台湾での苦い経験――仕事の紹介を口実にした不誠実な誘い

仕事を探す過程で、パク・ソンジュは不快で失望を伴う人間関係も経験した。

2025年7月の台湾メディアの報道によれば、Passion Sistersのマネージャーであるグアイジエは、パク・ソンジュから聞いた話を公に紹介している。

パク・ソンジュは、ある女性のオンラインコンテンツ制作者と知り合い、当初は動画を一緒に撮影しようと誘われることがあった。

しかし、その後はパーティーや別の社交的な集まりへの誘いが増えていった。

当時の彼女は中国語に十分慣れておらず、集まりに参加するほかの人々とも面識がなかった。

やがて、そうした誘いが当初期待していた仕事上の協力とは違うと感じ、距離を置くようになった。

グアイジエはまた、仕事を紹介すると言って近づいてきたものの、実際には私的な面会を望んでいた人々もいたと説明している。

こうした経験は、パク・ソンジュに「だまされた」という思いと傷を残した。

ただし、ここでは「だまされたと感じた経験」と、法的に確認された詐欺事件を区別する必要がある。

現在の公開報道だけでは、金銭詐欺や人身取引、その他の特定の犯罪被害があったと断定する十分な根拠はない。

確認されていない出来事を刑事事件として誇張すべきではない。

しかし、金銭的被害が確認されていないからといって、この経験の重要性が失われるわけではない。

むしろ、正式な就職ルートを持たない外国人パフォーマーが直面し得るリスクを示している。

仕事を探している人にとって、「仕事を紹介できる」という言葉には大きな魅力がある。

特に現地の言語に不慣れで、正式なマネジメント窓口もなく、誰が実際の決定権を持っているのか分かりにくい状況では、個人的な紹介に頼りやすい。

しかし、本来の仕事のオファーには、協力相手、仕事内容、報酬、日程などが明確に示されるべきだ。

仕事の紹介が次第に目的の不明確な私的な集まりへと変わっていくなら、当事者がその関係を見直すのは当然である。

パク・ソンジュは、自分を不安にさせる人々と距離を置くことを選んだ。

これは「苦労の末に成功した」という美談としてだけ消費すべき出来事ではない。

外国人の働き手が正式な仕事を得るために、不透明な私的な誘いを受け入れなければならない理由はない。

急速に成長する台湾の韓国人チアリーダー市場にも、この経験は一つの問いを投げかける。

より多くの海外人材が台湾で働くことを希望するなら、透明性の高い採用制度やマネジメント体制が必要なのではないか。

パク・ソンジュの経験は、華やかな舞台の裏側にある現実を浮かび上がらせている。

7. マネージャーに自ら送った手紙――チャンスの扉を自分でたたいた

長い待機と失望の末、パク・ソンジュはより直接的な行動を選んだ。

中信兄弟Passion Sistersのマネージャー、グアイジエに自ら連絡し、面談の機会を求めたのである。

2025年7月の報道によると、そのメッセージは華やかな企画書のようなものではなかった。

自分を紹介し、直接会って話す機会があるかどうかを尋ねた。

その行動が、後に彼女の台湾でのキャリアを変える転機となった。

面談当日、彼女は良い第一印象を残そうと、身だしなみにも気を配った。

会話のなかで、台湾が好きなこと、一人で暮らしながら中国語を学んできたこと、そして長い間仕事を待つなかで感じてきた思いを伝えた。

不快な仕事の紹介を経験したことについても話した。

グアイジエは後に、パク・ソンジュの姿勢と話に心を動かされ、チームに迎える機会を与えることにしたと明かしている。

2025年7月24日、中信兄弟Passion Sistersはパク・ソンジュとキム・ドアの加入を正式発表した。

パク・ソンジュはJJUBIという活動名を使い、背番号98を選んだ。

その日から、彼女にはようやく台湾プロ野球での正式な応援の舞台が生まれた。

しかし、この過程を「一通の手紙で就職に成功した」と説明してしまえば、それまでの努力を過小評価することになる。

面談を意味のあるものにしたのは、すでに積み重ねてきたプロとしての経験と、契約がない状況でも続けてきた準備だった。

その手紙が突然、彼女の能力を生み出したわけではない。

自分の経験と能力を、実際に採用を決める立場の人に直接伝える機会をつくったのである。

ここに、パク・ソンジュの物語が一般的な海外チアリーダーの加入ニュースと異なる理由がある。

彼女は誰かが自分を見つけてくれるのを待ち続けなかった。

機会が来ないのなら、自ら扉をたたいた。

8. 2026年6月――ようやく手にした舞台を、病気が止めた

2026年6月、パク・ソンジュの台湾での活動に、予想外の健康問題が訪れた。

6月初め、彼女はInstagramのストーリーズを通じて、体調不良で病院を受診し、急性虫垂炎と診断されたことをファンに明かした。

一般に「盲腸炎」と呼ばれることもある病気だ。

体調はダンスを踊ることが難しいほど悪化し、球団に休みを申請して応援活動を一時中断しなければならなくなった。

さらに残念だったのは、長い時間をかけて準備してきたソロステージも中止せざるを得なくなったことだった。

一般の観客には、チアリーダーが体調不良で数試合欠場したというニュースに見えるかもしれない。

しかし、彼女がそれまでの一年以上に経験してきたことを考えると、意味は大きく変わる。

球団との契約がないまま台湾に残ることを選んだ。

自ら中国語を学び、仕事を探し、不誠実な紹介にも失望した。

そして、Passion Sistersのマネージャーに直接連絡して、ようやく正式加入の機会を得た。

球場にも慣れ、ファンとの関係を築き、自分自身のパフォーマンスを披露する準備も進めていた。

その矢先に、突然の健康問題がすべての予定を止めてしまった。

プロのパフォーマーにとって、身体は単なる日常生活の一部ではない。

仕事を続けるための最も基本的な条件でもある。

予期しない病気一つで、練習も公演も、すでに決まっていた予定も変わってしまう。

異国で一人暮らしをしている人なら、医療関係者との意思疎通、生活の管理、仕事を休むことによる負担にも向き合わなければならない可能性がある。

ただし、現在確認できる公開報道が主に伝えているのは、急性虫垂炎の診断、活動休止、ソロステージの中止である。

手術の正確な日付や病院、具体的な治療経過については、十分な裏付けが得られていない。

そのため、追加資料なしに手術の詳細や、当時誰が彼女を看病したのかを推測して書くべきではない。

パク・ソンジュは当時、自分の体調をファンに説明し、ソロステージを披露できなくなったことへの申し訳なさも伝えた。

しかし、病気になることは、パフォーマーが観客に謝らなければならない過失ではない。

重要なのは、長い努力の末につかんだ舞台であっても、健康という現実的な限界に直面することがあるという事実だ。

突然の活動休止は、彼女の台湾での物語に、球場の拍手とは異なる一章を加えた。

彼女は舞台に立つ力を証明するだけでなく、舞台に立てないときに自分自身を守ることも学ばなければならなかった。

9. 2026年の台湾生活――彼女にも日常が生まれた

Passion Sistersへの正式加入後、パク・ソンジュは次第に台湾での生活に慣れていった。

しかし、それはすべての負担がなくなったという意味ではない。

2026年9月のインタビューでは、複数の都市を移動しながら応援活動を続けることの疲労について語っている。

何日も続けて働き、スーツケースを引いて住まいに帰るとき、突然悲しくなって涙が出ることもあるという。

この言葉は、球場で見せる明るい笑顔の裏側にある、もう一つの姿を伝えている。

観客が目にするのは、たいてい数分間のパフォーマンスだ。

しかし、その舞台の裏には、長い練習、移動、準備、イベントのスケジュールがある。

外国人メンバーであれば、慣れ親しんだ環境を離れ、一人で暮らす負担も加わる。

パク・ソンジュは、マネージャーやスタッフ、応援してくれる人々が、つらい時間を乗り越える助けになったとも話している。

Passion Sistersの台湾人メンバーとの関係も、次第に仕事仲間以上の友情へと発展していった。

彼女はインタビューで、チームメートの「瑄(シュエン)」との交流についても語った。

二人は一緒にショート動画を撮影し、プライベートでも時間を過ごし、中国語で会話することもできるようになった。

一見すると、ごく普通の日常だ。

しかし、中国語に慣れず、安定した仕事もなかった時期を経験した人にとっては、大きな変化である。

彼女はもはや、台湾で仕事をするだけの外国人パフォーマーではない。

自分なりの生活リズム、人間関係、日々の習慣を築きつつある。

本当の異文化適応とは、球場で中国語の応援フレーズを言えるようになることだけではない。

舞台を離れても自立して暮らし、気持ちを分かち合える人がいることなのだ。

10. 2026年10月、彼女は再び観客席に座った

2026年10月、中信兄弟と統一ライオンズはポストシーズンのプレーオフで対戦した。

台中インターコンチネンタル野球場で行われた第3戦と第4戦では、JJUBIとキム・ドアが観客席から中信兄弟を応援する姿が見られた。

10月13日の台湾メディアの報道によると、キム・ドアは第4戦後、JJUBIとの約束を守るために自費で台湾を訪れ、応援に参加したと話している。

ここで注意すべき点がある。

報道で自費による台湾渡航が明示されているのはキム・ドアであり、JJUBIも同じように海外渡航費を負担したと断定することはできない。

それでも、二人が観客席から応援する姿は、パク・ソンジュの過去と現在を対比させる。

2025年2月、彼女は台湾プロ野球球団の正式なチアリーダーではない状態で、台湾代表の応援現場にいた。

2026年10月、すでにPassion Sistersの一員となった彼女は、正式な応援ステージではなく、観客席からチームに声援を送っていた。

二つの場面で、彼女の立場は異なる。

最初は、台湾で新たな仕事の機会を探していた韓国人チアリーダー。

次は、すでに球団の一員となったプロのチアリーダー。

この変化は、SNSのフォロワー数や人気ランキングを比較するよりも、彼女が歩んできた時間をよく物語っている。

彼女が手にしたのは、単なる一つの仕事だけではなかった。

球団、球場、そしてファンとのつながりを、少しずつ築いてきたのである。

11. チアリーダーを辞めても、台湾に残りたい

2026年9月のインタビューで、パク・ソンジュは現在の仕事よりも先の将来について尋ねられた。

いつかチアリーダーを辞めることになったら、何をしたいのか。

彼女は、それでも台湾に住み続けたいと答えた。

YouTuberになることも考えたことがあり、今後も人前でパフォーマンスをする仕事を続けたいという。

将来的には音楽作品を発表したいという希望も語った。

ただし、これらは現時点では本人の構想であり、正式な芸能活動計画や作品の発売予定が決まっているわけではない。

それでも、この言葉は重要なことを示している。

台湾は、彼女にとって短期間の海外勤務先というだけの場所ではなくなっていた。

2025年、まだ球団からのオファーがなかった時点でも、チアリーダーを続けられなくなったとしても台湾に残り、別の可能性を探したいと考えていた。

2026年になっても、その思いは変わっていなかった。

彼女は自分の現在の歩みを「大器晩成」と表現した。

外から与えられるどんな肩書きよりも、この言葉が彼女の物語にふさわしいのかもしれない。

台湾に到着してすぐ契約を得たわけではない。

待ち続け、失望し、信用できない仕事の紹介にも直面した。

中国語を学び、自らチャンスを探し、ようやく正式な仕事を得た。

そして、ついに舞台に立てるようになったとき、突然の健康問題によって活動を休まなければならなかった。

彼女のキャリアは、最初から最後まで順調に進む成功物語ではない。

それでも、次の道を探し続けてきた。

だからこそ、パク・ソンジュを単に「人気の韓国人チアリーダー」とだけ説明することはできない。

彼女は、現在のチアリーダーという仕事だけに依存しない未来を築こうとしている。

12. JJUBIの物語が台湾の韓国人チアリーダー市場に問いかけるもの

近年、台湾プロ野球において韓国人チアリーダーは、球団の重要なエンターテインメント資源、そしてマーケティング資源となっている。

彼女たちはメディアの注目を集め、新たな観客を呼び込み、韓国と台湾の応援文化が交流するきっかけを生み出している。

しかし、市場が急速に成長する一方で、制度も十分に整備されているのだろうか。

パク・ソンジュの経験は、この問題を考えるための一つの事例となる。

すでに球団と契約した外国人メンバーには、一般的に比較的明確な仕事の予定や管理窓口がある。

しかし、契約を得られないまま仕事を探している人の状況は大きく異なる。

どの誘いが本当の仕事なのかを判断しなければならない。

契約条件や自分の権利を理解する必要がある。

慣れない言語環境で自分を守らなければならない。

パク・ソンジュが経験した不透明な仕事の紹介は、非公式な人脈に依存することのリスクを示している。

最終的に彼女がマネージャーへ直接連絡し、面談の機会を得たことも、透明な採用ルートの重要性を浮き彫りにした。

また、チアリーダーの職業的価値を短期的な話題性だけで判断すべきではない。

長年ダンスを学び、異なるスポーツ競技でパフォーマンスを経験してきた人もいる。

歌や司会、コンテンツ制作など、別の分野へ活動を広げたいと考える人もいる。

健康と労働環境も重要だ。

病気で仕事を休まなければならないとき、適切な支援と回復の時間は確保されているのか。

外国人メンバーが医療や生活上の問題に直面したとき、明確な相談先はあるのか。

これらは、チアリーダー個人の努力だけでは解決できない問題である。

球団、マネジメント会社、そして業界全体で考える必要がある。

台湾が韓国の応援人材にとって長期的に活躍できる市場を目指すのであれば、彼女たちがどれだけ人気を集めるかだけを見ていてはならない。

安全で安定した環境のなかで、働き、暮らし続けられるかどうかにも目を向けるべきだ。

結び――本当に記憶すべきなのは、彼女がユニフォームを着る前の日々だ

いまJJUBIという名前を聞けば、多くのファンは中信兄弟の黄色いユニフォーム、背番号98、そしてPassion Sistersの応援ステージを思い浮かべるだろう。

しかし、それだけを記憶しているのなら、彼女の物語で最も大切な部分を見落としてしまう。

正式加入する前から、彼女はすでに台湾に来ていた。

誰かが仕事を用意する前から、中国語を学び始めていた。

球団の一員になる前から、野球場で応援していた。

チャンスを待つ日々には、失望も経験し、信用できない人々からの誘いにも直面した。

そして最後には、自ら手紙を送り、一度の面談の機会を求めた。

ようやく手にした舞台に立ち始めた後も、2026年には急性虫垂炎によって活動を休まなければならなかった。

これらの経験は、彼女の物語を単なる人気やパフォーマンスの話ではないものにしている。

選択、待機、挫折、健康上の限界、そして異国で新たな生活を築くことについての物語なのだ。

彼女の職業人生が、あの手紙から始まったわけではない。

しかし、あの手紙は、韓国で積み重ねてきた応援の経験を台湾で続けるための機会を生み出した。

2026年の彼女は、中国語のインタビューを理解し、チームメートとの友情を育み、チアリーダーとしての活動の先にある未来まで考えている。

この旅は、まだ終わっていない。

いつか音楽や司会、別のパフォーマンス分野へ活動を広げるかもしれない。

あるいは、これからも長く野球場でファンとともに過ごすかもしれない。

いま、その答えを知る人はいない。

しかし、どんな未来が待っていようとも、パク・ソンジュはすでに記録する価値のある時間を歩んできた。

誰かに選ばれてから、台湾での生活を始めたのではない。

まだ誰からも確かな答えをもらえなかったとき、彼女は自ら台湾を選んだ。

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